昭和56年12月1日 月次祭 (末永信太郎)
・・・いよいよ15年の記念大祭が、明日、朝ってに迫っております。出社として、合楽でも日頃はご無礼ばかりでございますから、まあ、言うなら親の元で何かがあるという時には、お役に立ちたい。ね。日頃は出けてはいなくても、せめて、何かという時には喜んで頂けるようなおかげが頂きたいと思います。
どうぞ皆さんも、心掛けておっては下さると思いますけれども、一つ、出けるだけ沢山なご参拝と、もし出けなかったら、お初穂でも託けるというようなおかげを頂いて頂きたいと思います。
色々、まあ、相談を受けます時に、はあ、それは困りましたなあ、と言うのではなくて、相談を受けたら、ね、それに応えられるようなおかげを頂きたいもんですね。この親教会の記念祭についても、もう、2月も前だったでしょうか。今度は出社関係には、まあ、言わずに、教会内だけで、まあ、色々なことを運びたい。ですから、その、記念祭の、まあ、委員長も教会内、総代の中からということを、私、それこそご相談を受けまして、だいたい出社にはと言われながら、出社である合楽にいろいろと、まあ、御相談ではないですけれども、こういう祈念の事業を思い立ちたい、こういうようにしたい、ああいうようにしたい、というご相談を2月ほども前に受けました。
受けましたから、私はもう、さっそくその翌日に、それに、まあ、言うならばお応えするような気持ちで、おかげを頂きました。先ほども学長が、今度、琴があちらでは足りない、(けんだい)が足りないと言うので、ご相談を受けておると言うから、ああ、もうそれは良いどこじゃない。
昨日も、今、毎日のように、ここから4人5人の先生方が御用に行っております。で、今度は大盛台から、もう、玉串案から、椅子の類まで、その合楽にと、まあ、ご相談を受けて、はあ、もうよかどころじゃない、お使い頂きたいというようにね、ご相談を受けても、さあ、それは困りましたなあ、というようなことではない。どんなご相談を受けましても、それに応えられるだけのおかげを頂きたいと思います。
皆さん、どうでしょうか。私が皆さんにご相談をさせてもらう。はっ、親先生、それはもう、ご心配いりませんよと、ね、皆さんが言うて頂けるようなおかげをです、皆さん、一つ頂いて頂きたいと思う。先だってから、佐賀支部にこの頃は朝参りが多くなった。それでもう、次々と新しい方達がご参拝、まあ、大変な色んな難儀な問題を持って、ご参拝なる。で、先だってもう、ある、もう、それはもう、本当に聞くもん涙の物語というお話でしたがね。その、ご主人が、まあ、子供三人残して自殺をなさった。
もう、途方に暮れて、もう当然なことですよね。ほれで、その、三人の子供を育てることが出けないので、小学校ん時の先生であった古賀先生のところに相談に見えたんです。どっか、三人の子供を、その、もろうてもらうようなところはなかろうか、と言うのです。
そこで、信心の話をなさった。はあ、なるほど、そりゃ大変なことだなあ、大変なことだろうと思うけれども、最近、私はこうして合楽にお参りをさせて頂いて、こうこうおかげを頂いておるから、一遍、合楽の親先生に御取次を頂いてお参りをしてごらん、と言うので、そのおばさんに当たる方と一緒にご参拝になりました。そしたら、神様から頂きますのがね、例えば、そういう難儀を受けなければならないというのは、やはり、一つのまあ、仏教的な因縁とでも言うでしょうかね。
そういう因縁があって、言うなら、やっぱお道の流儀で言うと、そういうめぐりが出て来たんですから。ね。これはもう、当然、受けなければ出来ないのです。それを右左することは、とても出来んのですけれども、そういう、例えば難儀な中にあっても、先だって姫路の教会の教会長であります先生が、一年前に亡くなられて、一年祭がありました。
その帰幽一年祭の忍び草に厚いこんなご本が出けた。そのご本を送ってきた。こことは、古川の先生の弟に当たりますから、あそこは親戚関係になるんです。ね。前の教管もなさいました、偉い先生でした。その偲び草にこんな厚いご本が送って参りましたが、表紙にね、「道必ずあり」と書いてある。道必ずあり、と。だから、どういう難儀も、行き詰まってこれから先は一寸も行かれんというような時であっても、ね、必ず道はあるんだ、と。だから、道を習う、道を覚える、道を行ずるということが先決なんだ、ということです。ね。必ずおかげになる、とは言うちゃないです。ね。道必ずあり、であります。
ですから、その道を教えてもらい、その道を覚えて行くということなんです。これは、高橋正雄先生のお言葉だということですけれども、なるほど、素晴らしいと思います。ね。やっぱし当時、本当にあの、教内教外からも金光教に高橋ありと言われるほどしの先生でしたから、素晴らしい言葉を残しておられるな、と。姫路の教会が戦災で、もう何も無くなってしまった時に高橋先生がお出でられて、こういう中からでも道は付くんだぞと、道はあるんだぞという、いわば励ましのお言葉であろうかと思います。ね。
道必ずありです。ね。必ずおかげになるじゃないです。ね。道は必ずあるのだから、その道を先ず習うことだ、それを踏み行うことだ、行ずることだということがいるのです。これは、もう数十年も前でしたけれども、御本部へ月参りをさせて頂いておる時に、今の学院の見学をさせてもらった。講堂、いわゆる、二階が講堂になってますが、講堂の御神前がこうあって、そこの前のここのところに、大きな額がかかっとる。
それに、求道と書いてある、道を求めると書いてある。ね。それはもう、あらゆる稽古事には、やはりこの求道ですね、道を求めるということになる訳ですけれども。私はそれを頂いておったら、そん時、神様からあの、求道する前に、先ず光を頂けと頂いたんです。ね。言うなら、求道求道と言うて、一生、本当のところには出り得ずして中途半端なところで、はあ、これが悟りだ、悟りが開けたと言うて、そこに安住してしまうようなことではなくて、限りない、限りないおかげの頂けれる道なのです。
ですから、限りないその道を押し進めて行くわけですけれども、いわゆる、手探りに求道求道、いかにも良い言葉のようですけれども、それよりも、先ず光を頂くことなんだ。光を持つから、はっきりと間違いのない道が分からせて頂くのであり、踏み行うて行くという気があれば行ける。必ず、いわゆる道があるであります。合楽では、私はその道をはっきり示しておるのが、私は合楽だと思う。また、合楽理念だと思うのです。ね、はっきり示してある。ですから、それを聞いて、頂いて、それを行じなければ、値打ちはないのです。今日も、朝から大変、今日は一日ですから賑わいました。
いつも四時に御祈念させてもらうのですけれども、今日はもう、御祈念の時間も、まだいっぱいお参りがつかえておりましたから、ちょうど5時まで御取次させてもらいました。それで、いつも四時から四時半まで、三十分間、御祈念をさせてもらうんですけれども、もう、時間がそうして過ぎましたから、まあ、それこそ神様の前に、ね、広大無辺の神様の御恩恵、お恵の中に今日もこんなに沢山な氏子が参詣のおかげを頂いて、様々な願いをして参っております。
どうぞ、その一つひとつ、その一人一人の願いがお引き届き頂き、もう、今日はこれだけであった。これだけで、まあ、御神前を立たせて頂いて、裏へ下がらせて頂いて、また、私の部屋にお祭りしてある神様にお礼をさせてもらう時に、ああ、今日の御祈念なあ、あんまり簡単じゃなかったじゃろうかと、こう思うたんです。ね、ここ下がってから。
そう致しましたらね、大きな松、松の実です、(松毬?)。ね。まあ、九州の信心は松の信心と言われますよね。ですから、この松の実ということは、まあ、大変こう、信心の実りという風に、まあ、頂いても良いでしょうね。そしたら、その大きな松毬を頂いて、その松毬がね、この見事なパイナップルになった、と。よく似てますでしょ、松毬と。ね。それがもう、熟れに熟れてね、もう本当にあの、香りがしよりゃせんじゃろうかと思うような感じのね、もうそれこそ、生々しい、瑞々しい、美味しかりそうなパイナップルに変わって行くところを頂いたんです。ね。
そして、神様から御理解にね、松の実は食べられんて頂いたんです。やっぱ、神様も卑しいですばい。ええ。無味乾燥とか、松の実どんお供えしたっちゃいかん。パイナップルの方がよかち、こう言いよんなさる感じでした。ね。合楽で人間が人間らしゅう生きて、と。さあ、何かこう、もうそれこそ松の実のようにと、まあ、申しますかね。過去数千年のこれは、信心の全てが言うて来たことでしょうけれども、信心とはこうでもなからなきゃならん、ああでもなかなきゃならん。
例えて言うならば、仏教の五戒であり、または、キリスト教の十戒なんかていう、厳しい、まあ、その掟というでしょうかね。そういう教えというものを行じて行く、守って行かなければ本当なことは分からんように、ね、人間が人間らしゅうじゃない訳です。
いわゆる、そういうもんじゃ神様が喜びなさらんです、金光教の神様は。おかげを頂いて、例えば自分、例えば、なら、今日のように朝からずうっと御取次に御取次させて頂いて、四時の御祈念も出けないくらいにあった。だからもう、五時のここに出らせて頂いた時には、もう簡単に、神様、広大無辺の神様、貴方のお働きの中に、その広大無辺な働きを今日参拝して参りました一人ひとりの氏子の上に現して下さい。
もう、簡単である。ね。それを、ね、それを例えばわがままとか、自由では出けないでしょうけれども、ね、その、私どもが対象とする神様は、そういう神様なんです。松毬よりも、言うならパイナップルの方がお好きの神様なんです。人間が人間らしゅうおかげを頂いて、神様有り難うございますと言やあ、それの方が、そういうことをしてからと仰る神様じゃないのです。ね。そこに氏子の喜びがあるならば、それこそ全てのことに御の字をつけて頂けれる心の状態が開けるということが、神様のお喜びなんです。ね。
今日は、皆さんに私ですね、神様から言うながご相談を受けた時に、ね、それに、「おう」と応えられるだけのおかげを頂いてもらいたい。ためには、それだけのことが出来ておらなければ出けない。ちょっとここに金が一万円ばっかりいるがち、さあ、それは困りましたねえじゃなくて、んなら、家のば使っといて下さい。相談を受けた時に、それに応えられるだけのですね、言うならばおかげを頂きたい。
佐賀の(空関先生?)ところのいわば教え子であったという、その方が参ってお参りした時に、ね、三人の子供の言うならば(外子?)に出したい。それはもう、本当にそうだろう。三人の子供が足手まといになっとったら、生活が出けない。
ね、そこで、んなら、いわば教育者であった空関先生が、今までの教育では応えられない。そこに、言うなら必ずおかげの頂けれる道があるに違いはないから、まず、合楽にお参りをしていらっしゃいと言うて、ここのことを教えられた。そして、私は御神眼に頂きますのにね、あの、雉を頂いたですね。あの鳥の雉です。その雉がね、こう、荒縄でこう、固くじゃないけれども、緩くこう、括られておるところを頂くから、羽根がバタバタ出けない、動かせない。
というお知らせ頂きましたから、私が今のね、難儀を今解放される。今、子供を他所にもろうてもろうて、アンタが働きに行ったらいかにも楽なごとあるけれども、それでは本当の親として、子としての幸せがない。ね。子供としても親としても、本当の幸せではない。これを、んなら、三人の子供も親も、また、あの時はああいう難儀、苦労はさせて頂いたけれども、おかげでこんなにも手足も伸びて、こういうおかげになった、ということにならなければいけない。
今、この荒縄を解いてもらう訳にはいけないけれども、ね、それは、緩く括ってあるのですから、ね、飛んで行けること、ね、雉というのは飛んで行ける鳥ですけれども、ね、飛んでは行けなくても、ね、その足元に言うならこうやって餌を漁るぐらいなことは出けるんだ、と。足元に喜びありである。ね。
おかげというものが向こうの方にあるのじゃなくて、足元にあるのであるから、足元のところから神様におすがり、お願いをさせて頂いて、子供の手足が伸びる。また、おかげで、まあ、食べて行くだけぐらいなことは、おかげの頂けれる手立てをね、するためには、子供をどこにもろうてもらおう、やろうといったようなこっじゃなくて、子供を抱えながらでも出来れる、言うなら立ち行くおかげを頂かなければならん。
昨日、お礼に出て見えましてから、そのことを、もう大変感銘深く、教えを頂いて帰って、お礼に出て来ましたということでございましたが、これから、どうでもおかげ頂いてもらわんなんと思います。ね。それにはね、私が括られておる、不自由であるということがです、本当に不自由と感じるなら、まあ、言うならば監獄に行っておるようなもんだ。まあ、合楽には、金光教にはそういう言葉はないけれども、なら、罰を受けておるなら受けておるというわけで、監獄に行っとるということになるて、まあ、仮定致しますとです、なら、監獄での勤めが良かれば十年の刑は五年で住むんです。ね。
(おにせい?)というのがあるのです。ね。ですから本当に、そういう窮屈な中にあっても、自分の足元に餌を探させてもらう、喜びを探させてもろうて、もう、本当に自分のような難儀な者があろうかと思うような中にあっても、喜びを見出して行くおかげを頂いて行けと、というような生き方になったら、ね、十年苦労せんなんとは、五年で神様がおかげ下さるよという訳でございます。ね。
そして、自由に飛んで行けれる、飛びまわることが出けれるおかげにも、またなって来るわけ。これもやっぱ、空関先生のところ、先日、これもやっぱ教え子であった。ね。とにかく、今日の3時までに何百万かの金を作らなければ、もう、どうにもこうにも出けん。先生、どうかして下さいちゅうて、三百万( )先生て、空関さんのところに相談に来たっち。
そりゃあ、してあげられりゃ、してあげたいけれどね、今、私の方もそんなにまとまった金がどうという事じゃないけれども、まあ、さっきも一緒に話されたように、ね、とにかく合楽にお参りをして、合楽野や先生のお話を頂いてらっしゃい、と言うてここへ、まあ、教えられた。一人で参って来ました。
もう私は、若い青年です。ね。もう、とにかくもう、(しょうすい)しきってるんですよね。金のもう、まあ、途方に暮れておるという姿です。なるほど、ここに、その何百万かという、その金を誰かが貸してくれたら、それこそブッとするでしょうけれども、それだけで道が開けるとか、おかげになるという事ではない。私はその方に申しました、ね、とにかく、まあ、バタバタしたって仕様はないけれどね、まあ、今日一日バタバタしなければおられまいから、そんならしても良いけれどもね、ね、例えば払えんと言うて、押さえつけて、言うなら命まで取ろうというモンなおるまいから、腹を作んなさい、大きゅうなんなさい。
その方のことを、私は御取次させて頂いたら、大きな、もうとにかく(端然)のような、厚く綿の入った、(よぎ)のようなのを、その人が着てるところを頂いた。ところが、これが小さいもんですから、手も足も出ないちゅう感じですね、大きいから。そういうお知らせを頂いたから、はあ、この人がもう、大きく、このことを通して大きくなる以外はないと私は思うた。ね。
大きな、厚い、(いや?)これに手が抜かれたら、まあ、それこそ暖かい思いをすることが出来るでしょう。また、手も自由に出すことが出来るでしょう。手も足も出らんという今の状態だけれども、今、手が出る足が出るということではない。ね。
こういう時に、いよいよ人間の言うならば本当の生き道をね、体得する。心が豊かに大きゅうなる。大きく育つことの生き方をね、身に付けて行かれたら、この着せて頂いておる、この、まあ、(たんぜん)のような(生地?)にこう手を出すとです、どんなことにでも手が出せるようなおかげが頂けれる。手が出せなければね、相談を受けても、相談、さあ、私もまだ(罪?)に通っとるっちゃ出けんでしょうもん、相談を受けても。ね。私は本当にそれをね、神様にご相談を受けた時に、神様にそれは「おう」とお応えが出けるような、一つおかげを頂いて頂きたいと思います。ね。
今朝からの御理解の中にも、皆さんに聞いて頂きましたように、久留米の岡崎さんという方が毎日日参してきます。もう、長い信心ですけれども、もう、この朝参りがこんなに続いたことはございませんでした。初めの間は、やっぱり色々お願いがあって、お願いをする。手形が落ちません、どうぞ、というような険しいお願いでしたけれども、段々、本気で信心のけいこに通うて来らせて頂けれる、そのことが有り難うなって来た、朝参りが有り難うなって来た。
昨日のお参りの時のお届けでしたけれども、おかげを頂いて、ね、信心のけいこに、こうして毎朝通わせて頂くようになったら、もう、月末月末の言うならば、こうつがみが合うて行く、終始が出けて行く。まあ、いよいよね、皆さん12月という月は一年の締めくくりの月ですから、その、何かの終始が付かなければならんでしょう。
ためには、どうぞ終始が出けますように、今年がやり抜かれますようにということよりも、一月間ありますから、一月間でも良いから本気でね、今日は(しゅきゃくてんとう?)ということを頂いた。どうぞどうぞ、と言うてお願いのために何十年、朝参りが続いとりますと言うじゃなくて、ここには信心のけいこに来るところ。まめな時、ここへ参って信心のけいこをしておけと教えられるのであるから、ね、それこそ何でもない時のお参りによって、信心のけいこをさせて頂いておく。けいこが先に立つ。
それに、今日の岡崎さんのお話じゃないけれども、おかげを頂いて、月末ですからけただましいお願いをせんでも、つがみが合うて行くようなおくり合わせを頂いております、と。どうにも出けん、行き詰まっておる時には、そこにいっちょ止まって、ここを押し抜こうとせずにです、足元の喜び、言うならば、教えて頂く、その教えの実験をして行くことを先にしなければいけない。
お互いの信心が(しきゃくてんとう)になってはいないか。どうぞ。おかげおかげと言うて、願っておかげが付いて来るのじゃなくて、信心を進めて行く、信心のけいこをさせて頂く。そのけいこに従って、おかげの方が付いて来る、というおかげじゃなからねばいけないといったようなね。
それにはね、合楽で信心のけいこをさせて頂く、合楽合楽と皆さんが言うけれども、どこがよかなら合楽はそげん、合楽合楽て皆さんが言いなさるですか、と。ほれは、貴方、おかげば頂きますけんでの合楽では、値打ちはないです。ね。今日の朝の御理解の中にも申しましたことでしたけれども、昨日一昨日でしたかね、竹葉会がございました。竹葉会で秦先生が司会を致しました。
素晴らしい司会を致しておりましたが、最後の済んだ時に、最後の締めくくりの、まあ、挨拶の言葉にです、これ、そこちょっと、書いてあるとがあそこにあった。素晴らしい言葉だったからね、私、覚え、秦先生、アンタは最後にどげん言うたのち言うたら、いや、忘れましたち、どげん言うたて。忘れましたっちゃ、アンタ、素晴らしいことば言うたばい。いいえ、覚えとらんちゅう。やっぱ、神様が言わせてござるとですよね。それから、坂根先生が、んなら、あれはテープに入っとるでしょうからと言うて、テープを聞いたら最後の挨拶が入っとった。で、そこんところだけを坂根先生が書いて来てくれてる。
ちょっと読んでくれんの。「合楽理念を学ばせて頂いたら、合楽理念以外は信仰とは思えない。、いよいよ、絶対の助かりの理念は、合楽理念以外ないのですから、これをひたすら精進させて頂きたいと思います」。ね。どうでしょう皆さん、合楽通いのね、その、いわば合楽でなからなければならんという、ね、金光教の信心でなからなければならんという、しかも、その金光教、教祖の御教えをここまでに、言うならば十全のものとして説き明かしておる教えが他にあるだろうか。過去数千年の宗教の中にもあったであろうか。
ね、このように、言うなら人間が人間らしゅう助かって行く理念。もう、合楽理念以外は信仰とは思わないというくらいなものが、これは本当にそうなんですよ。本当、だから私が言うとです、そればってん我田引水に聞こえるでしょう。また、合楽をあんまり知らない人が聞いたら、まあ、合楽はもう、それこそ我田引水を自分の我が物宝で言うという風に言われるかも知れませんから、私は今日は研修の時に、先生方に申しました。私が言うと我田引水になるから、あなた方一人ひとりが秦先生じゃないけれども、合楽理念、いわゆる合楽の信心以外は信仰ではない。そうですよ、本当にそうです。
というほどしに、従前の教えが説かれてあり、しかも、その気になれば誰でもが行じられるように説いてある。そこを皆さんが見極め、そこが分かり、踏まえての言うならば打ち込みである。どういう打ち込みかと言うと、いわゆる、しきゃくてんとうにならないような、おかげを、おかげが先に立つのではなく、信心が、信心のけいこが先に立って行くというような信心姿勢、構えが変わって来なければならない。ね。
それには、合楽の信心が、私は昨日はある修行生の先生に、研修ん時になかなか頭もいいし、文筆もあるんです。けれども、この頃ずうっと、まとめも何もしませんもん。それで貴方、どげな、どういう風のちゅうたら、僕の怠慢ですと言う。ね。
ですから、怠慢ということは、無礼だと、私が言いました。怠慢無礼と言うじゃないか。誰に無礼かと言うと、神様にご無礼になることはもちろん、なら、ここでおまかないを頂いて信心のけいこをさせて、全身全霊を親先生に捧げるような気持ちでここに修行に来ておるのじゃないか、と。それでいて、なら、研修にも言うなら加わらなかったり、まとめもせんぐらいな事であっては、自分で言うように怠慢であるなら、怠慢ということは、そのまま無礼だと、親先生に体する無礼だ、と私が、まあ、決め付けて申しました。
これはだから、皆さんだって同じですよ。合楽合楽と言うて傾倒して、おかげに傾倒するか、信心に傾倒するか。しかも、このように間違いのないものとして分かって傾倒して行くというもんでないと、私は本当のことになって来ないと思う。教えを守らないということは、神様に体してご無礼。頂いたものを粗末にしておるようなことなんだから。そうでしょうが、怠慢無礼なんです。ね。
で、今日、まあ、皆さんに研修の時に話した事でしたけれどね。ええ、今日は山口支部の方からも、皆で参拝して来た。支部長さんの浅野さんというのは、もうお婆さんですけども、俳句をなさる。毎月、十句ぐらいの俳句をつくってみえて、今月もこれの内から、五個か六個か、こうよって下さい。
私は俳句なんかしたことがないから、分からんのです。けれども、神様に○つけて頂いたとだけを出すことにしてるんです。今日もやっぱり、それを書いて持ってみえておられますその中にです、何じゃったか。なかなか、艶かしい句でしたもん、お婆さんのにしては。はっは。「ときめきよ、かくすにうすき、しょうるかな」。あの、薄いしょうるのことでしょうね。ね。
なかなか、その、何ちゅうか、艶かしい私は感情を受けたんですけれども、信心にはこの艶かしさがなからなきゃいけんと言うて、今日は話したことでした。言うなら、ときめきがなからなきゃいけないち。はあ、今日はお月次祭、さっ、早うみんな、こう、早う用意して、早うみんなでお参りするばいて。もう、心がときめく、今日はどげな御理解頂くじゃろうかと、私はそういうね、あの、信心のけいこをさせて頂く、けいこが身に付いて来ると、そういう、ときめきに似たようなものが頂けるようになるんです。
ああ、もう、また参らにゃんちゅうようなことじゃなくてね、それこそ、ね、好きな人の出会いの時を感じるような、心にときめきを感じるような、言うならば信心がいるんです。信心には、そういうものがいるんです。ね。それをです、ね、私は今日、皆さんの発表を聞かせて頂いておったら、皆素晴らしい。昨日、私がそげん、こう言うとったけん、今日はみんなまとめておった。もう、桜井先生の奥様達までが今日はまとめてあった。なかなか良いまとめが出けるんです、やろうと思うたら出来る。
一番最初に正教先生がしますから、その、正教先生がその、合楽教会への惚れ込んだ、とこういうことを言ってたんです、書いとるんです。で、私が訂正しました。惚れ込みじゃいかんですもんね、あれは傾倒でなからにゃ。惚れ込みちゅうと、あれは痘痕のえくぼちゅうでしょうが。だから、良うなかったっちゃ、やっぱ自分が、私が目から見て下さいちゅうごとなって来るです。ね。だから合楽をね、私の目から見て下さいじゃいかんです。本当に素晴らしいところを見極めて、そして、それに傾倒して行くというじゃなかにゃいかんです、惚れ込んだんじゃ駄目です。ね。どこに惚れとっじゃ分からん。
痘痕もえくぼに見えて来る・・・(テープ切れ)